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※「現代4コマの周辺概念」の定義は変更される可能性があるため注意されたし。 現代4コマの周辺概念とは、現代4コマの文化圏内において発生した概念群のこと。 概要 周辺概念一覧トーナメントアート概要 白紙ズム概要 セルフイントロダクショニズム概要 ネオ・あみだくじ概要 引きズム概要 認証派概要 アホ・マグリット概要 架空謎解き概要 しまじろう概要 カクカク芸術運動概要 シュルシュル芸術運動概要 網膜音楽概要 概要 概念提唱者が現代4コマ作家である例が多くあり、現代4コマ作品にてその手法が導入されることがある。以下の項目にて周辺概念を列挙する。なお記載の並びは必ずしも概念の成立順とはなっていない。 周辺概念一覧 トーナメントアート 概要 城スタジオが提唱したトーナメント表をモチーフにしたアート。 白紙ズム 概要 桜桃が提唱した無の表現。 セルフイントロダクショニズム 概要 トウソクジンが提唱した自己紹介を芸術と言い張る主義。 ネオ・あみだくじ 概要 あみだくじ、あるいはあみだくじっぽいものを芸術とする運動。 引きズム 概要 トウソクジンが提唱した描いた絵にテープを貼って表層を引き剥がすアート。 認証派 概要 認証システムに関わるものを芸術とする運動。 アホ・マグリット 概要 いとととが提唱した観る者を騙さないマグリット風の構文。 架空謎解き 概要 しまじろう 概要 カクカク芸術運動 概要 いとととにより再定義されたキュビスム。 シュルシュル芸術運動 概要 トウソクジンにより再定義されたシュルレアリスム。 網膜音楽 概要 いとととにより提唱された「目で見て音を感知する音楽」のこと。
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IDdata Name 法華堂 戒(ほっけどう かい) Alias 【レッドラム(赤い羊)】 Class インダストリアリスト グラップラー Rank マイスター++ マエストロ Money 202,978,999,111W¢ Point 890899000pt Ranking 158/6473226 OOPARTS Link ブラックシープ商会所属 Age 17 学年 四十七年度入学 予科程五年終了 本科四年目 職業 ホームセンター黒羊店長 人種 日系西人 所在地 イーストヤード ブラックシープ商会本部 連帯保証人 ミヒャエル・バッハ PROFILE ブラックシープ商会直営ホームセンター『黒羊』の店長。商人リンクであるブラックシープ商会では珍しい武闘派。名前と対極の道を行く、かつてスラム街を震撼させた元殺人鬼である。 噂では両親も殺人鬼らしいが、本人いわくもう死んでいるとか。現在では、敬愛する社長・エドワードのために無差別殺人はやめているが、万引き犯や強盗が出た際はかつての勇姿というか恐怖が垣間見える。ちなみに、彼の知名度と黒羊の万引き率は、反比例の関係にある。 総合順位は上司であるエドワード・ブラックシープやメリー・シェリーより上だが、これは彼がブラックシープ商会では珍しく戦闘能力が高いことと殺しの技術の高さのせいで、無駄に知名度が高いからである。経営力では、エドワードとシェリーがはるかに勝っている。 三年前、中東のほうでブラックシープ商会系列の商社が海賊に襲われた際、単騎で迎撃に成功したばかりか、逆に海賊のアジトに攻め込み壊滅に追い込んだ事件をきっかけに名前が表に出るようになった。現在では、急成長中の超総合製造小売業であるブラックシープ商会の番犬、あるいは迎撃兵器として広く名を知られている。 はっきりとした証拠がないのでうやむやになっているが、過去の殺人行為と迎撃の際の手口の徹底した残虐さから、ネット上では噂に尾ひれがついてとんでもない化け物のような扱いをされている。実際は線の細い美少年なのだが、学園外の人は「筋骨隆々で素手で人間を砕ける化け物」と思っている人が少なくなく、戒に会うとイメージのギャップに驚く。 戒は予科生時代、トランキ学園に入学したものの周囲に馴染めず、夜な夜なスラム街をうろついては無差別に住人を襲う殺人鬼になっていた。予科生段階で殺人鬼をしていてちゃんと本科に進学できたということは、実はすごく頭がいいのかもしれない。 ブラックシープ商会に入ったのは、いつものようにスラム街をうろうろしていた時に、エドワード・ブラックシープに偶然出くわしたことに端を発する。 ある晩、たまたま獲物に抵抗され怪我を負った戒(当時13歳)がわき道に潜んでいると、エドワードがふらふらと通りかかった。戒は即座にエドワードを殺そうしたが、刃を向けられたエドワードはそこでなぜか「怪我人は医者にいけ!!」と絶叫。問答無用で殺人鬼を抱えあげると病院へ強制連行した。なぜそんな行動をしたのかエドワードは多くを語らないが、多分、戒を女の子と間違えたのだろうと知人たちは推測している。 「怪我をしている女の子がいる → すぐに病院に連れて行って手当てをしなければ」という思考回路。一見、人として正しいが、幼い女の子だから病院に連れて行くという動機は人として完全に間違っている。 そして病院に連れ込まれた戒は、適切な治療を受けた後、エドワードと待合室で再び顔をあわせた。そのときには、エドワードのほうも戒が男であると認識していたと思われる。 なんで助けたと詰め寄る戒をエドワードは笑顔でかわし、逆になんであんな場所にいたのかと尋ねてきた。やけくそで戒が殺人行為を自白するとエドワードは、「それはいいね。君、よかったら僕のリンクに入らない? 僕と僕の仲間を殺さないなら、別にどんな嗜好をもっていても気にしない。それに僕、殺人鬼の友達ってまだいないからほしいと思っていたんだよ」と勧誘してきた。その場では断られたが、エドワードはしつこく勧誘を続け、本科進学と同時に戒をリンクに入れた。 戒はさびしがりやの殺人鬼という色々どうしようもない人間なので、懐かせるまでは常に殺されるかもしれない危険性と隣り合わせだが、一度懐くとべったりになる。 ちなみに保証人のミヒャエルとは、エドワードの仲介で知り合ったらしい。初めて会ったときミヒェエルは悲鳴をあげて逃げ出し、エドワードに「人を性癖だけで判断するんじゃない!」怒られた。しかし、この場合どちらかというエドワードのほうが常識として間違っている。戒が何もしないと分かってからは普通に付き合うようになった。意外と神経が太い。 戒の赤い羊というエイリアスの由来は、現場を血まみれにする彼の殺人の仕方にある。首や腹部の動脈や内蔵を狙って槍を突き刺すので、結果的に現場は血の海になる。通り魔時代は、毎回腹部を裂いていたらしい。なぜわざわざそんな殺し方をするのかというと、「殺したって感じがするから」らしい。本当にどうしようもない天性の殺人鬼である。 ABILITY トライデントという三又の槍を使う。なぜそんな目立つ武器で通り魔をしていたのかは、ブラックシープ商会の中でもトップクラスの謎の一つである。ちなみに、この槍、名前が長ったらしいので皆「フォーク」と呼んでいる。 槍使いとしては学園でもトップクラスの腕。タイプは少し違うものの同じ槍を使う狗刀宿彌を目標にしている。しかし、当分追いつけそうにない。 防御を軽視、攻撃重視の猛攻は上位のランカーでも舌を巻くほど。内気功より外気功に重点を置いている。 最近は、経営学にも力を入れているようだ。以前はトラブルを力任せに解消したがるくせがあったが、現在では大分おちついた。
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法華寺 京都府京都市下京区、法華寺の御朱印(御首題)です。 洛陽十二支妙見の未年の妙見「未の方の妙見さん」です。 ★住所 京都府京都市下京区島原西新屋敷中之町108 -
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般若心経を書きた扇子を貰ひけり。 →「今日のtepu」2006.7.26 故に写経を致したものなり。他サイトなどを元に現代字訳にも挑戦しけるものなり。 但し、漢字は一部現代字にしてある。盡→尽など。 写経などと云いながら漢字変換が大変だつたので、 後半はコピペスマソである。 参考にしたサイト 現代語訳は此処から頂きてゐます。 http //www2.inforyoma.or.jp/~chance/kannon/singyouyaku.htm さらに参考にしたサイト 美しい般若心経 (構造としてはまだ反映していませんが、今後推敲時によく見る予定。むしろすぐ後に述べる「字訳」と云ふ考え方には大いに感化された。) 本頁のねらい 後者のサイトに於て、三蔵の訳は漢語訳ではなく漢字訳であるとの指摘が在り重要である。そこで此れを受けて本頁では 現代語訳(上記サイトからのコピー) も参考にしながら、現代「字」訳を試みた(赤字)。「語訳→語訳」よりも「字訳→字訳」のはうが誤差が少なひ事もあらうかといふ事を意図してゐる。自分の勉強のための注釈は緑字。 以下で試みた現代字訳では、菩薩が瞑想の中で観自在になりてゐる状態を舎利子に実況中継して聞かせるという前提になりている。また個人的に思想背景として大日如来を意識してゐるので言葉の選択等に何がしかの影響があるやもしれない(「心を識別しようにも隔てが無い」など)。 取り敢へず最後まで訳したものの、借り物の所も多く、上記サイトや「般若心経秘鍵」などで更に勉強しやうと思ふ。 本文 仏説-摩訶 般若 波羅蜜多 心経 仏の大いなる智慧の完成した心の教え 仏さんが説く 不思議なる般若波羅蜜多 生き生きと伝へる 「般若-心経」は「般若心-経」の読み方もある(般若深行秘鍵)。 原文の「心」が何の意かは不勉強ではあるが、心→心臓→生きているということ→Liveということで、「心経」は「ライブで(=活きたまま)お届けします(小林克也風)」の意ではないかと見当をつけている。和製英語も何なので「生き生きと」とした。少なくとも心(漢字訳では「意」)は無いと云っているのだから、別の意に解するべきである。 なお、「経」はその目的からして、また「経る」の訓からも「伝へる」の訳が適当と解釈した。一般的には「教え」と訳す事が多いと思はれるが、知る事は無い(無智)と言ひているのだから別の意に解するべきである。 般若はサンスクリットからの音写で、智慧と訳される事が多い。goo=三省堂大辞林では他に「根源的な叡智、究極的心理を知ること、慧」。波羅蜜多もサンスクリットからの音写で、最早為す事が無いの意。 観自在 菩薩 行 :深・般若→波羅蜜多 時、 照見:五薀皆空 度 :一切苦厄。 聖なる観音菩薩は、この世にあるすべてのものがどのようにして存在しているのかを知ろうと、観察と瞑想による深遠な智慧の完成の修行をして、ついにそれを極めました。 そして、人間を構成する五つの要素である、身体、感覚、意識、意志、認識は、すべてみな『空(くう)』という本質を持っているという真理を見抜いたため、この世のすべての苦しみから解放されました。 『空』とは、すべてのものは常に移り変わり、永遠に同じ状態では存在できないという真実と、すべてのものはお互いに関連しあいながら存在しており、他との関連性なくして存在できないという真実をあわせた、存在に関する真理です。 観音菩薩は、この『空』の真理について、釈迦十大弟子の中で知恵第一といわれる舎利子(しゃりし)に説法されます。 観ること自由自在 菩薩さん 般若波羅蜜多 深い瞑想の時 見へてきた 5つの薀はそれぞれ何物でもない 乗り越へる 一切の苦厄 薀の字は薀蓄の薀。集合体、集めたもの、など 度は渡るの意。 舎利子。 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色。 受・想・行・識、亦復如是。 舎利子よ、この世に存在する形あるものはすべて、『空』という本質を持ち、また、『空』の原理に基いてこの世に存在しているのです。つまり、存在する事と『空』とは異質ではないのです。この世に存在するとは『空』であるという事であり、『空』だからこそ存在可能なわけなのです。 この真理は、私たちの心の作用にもあてはまり、感覚も、意識も、意志も、認識も、すべて『空』という本質を持つのです。 シャーリプトラさん 「何かであるもの」は「何でもないもの」と違わない 「何でもないもの」は「何かであるもの」と違わない 「何かである」が即ち「何でもない」 「何でもない」が即ち「何かである」なんだ 感覚・意識・意志・認識もまたこれと同じさ 舎利子。 是 諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減。 舎利子よ。この世において存在するすべてのものが『空』の現われた相(すがた)であり、『空』の特性は、生まれるものでも死ぬものでもなく、汚れたものでも清浄なものでもなく、減るものでも増えるものでもないのです。 シャーリプトラさん こうだよ 諸々の原理は「何でもない」の面から理解できる 生まれもしない消えもしない 穢れもしない澄みもしない 増へもしない減りもしない 浄はインドのカーストに於て重要な概念。日本の神道でも穢れを清めること(御祓い)を重視しているのはご存知の通り。一神教の世界では罪が重要なので「罪も無ければinnocentも無い」となるところだろう。 諸法の実相は空とされるさうだ 是 故 空中 無:色 無:受・想・行・識 無:眼・耳・鼻・舌・身・意 無:色・声・香・味・触・法。 無:限-界 乃至 無:意識-界。 だから『空』という真理の立場から見れば、物質的現象もなく、感覚・意識・意志・認識という心の作用もなく、眼・耳・鼻・舌・体・心という感覚器官もなく、その感覚器官の対象である形・音・香り・味・感触・意識もなく、感覚器官の対象の領域も、見える形の領域から意識の領域にいたるまでことごとくないのです。 こうだよ 「何でもない」の中だから 実体が無い (実体がない) 感覚・意識・意志・認識が無い (受け止めて無い) 眼・耳・鼻・舌・体・心が無い (受ける止めるものが無い) 形・音・香り・味・感触・意識が無い (受けるはずのものが無い) 不勉強のため受・想・行・識の訳は丸写し。「想」を「意識」と訳し乍ら、下の「意-識」を「心」に訳すと云ふ「ねじれ」が生じてゐる 右側は明らかに意訳なので主旨には反している。参考。 限ろうにも隔てが無い それが至りて 心を識別しようにも隔てが無い 意識は識の一つ。眼・耳・鼻・舌・身・意がある。科学では五感を意識が認識する事になってゐると思うが、仏教哲学では並列し、これらの前提に阿頼耶識(あらやしき)を措定する。西洋で探せばデカルトのエゴか精神分析の無意識あたりか。ユングと密教の話はまたどこかで。 無限界乃至無意識界の訳は引用した現代語訳と全く逆の訳となりてしまふた。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識を合わせて限といふのだらうか。それなら限の界から意識の界に至るまで無いという意味にはなるし、感覚器もその対象も無いということで筋も通る。個人的には今の訳で気に入っているのだが。 従ってこのセンテンスは一般の解釈と違ひ、下のブロックに入れたい。 無:無明 亦 無:無明尽。 乃至 無:老死 亦 無:無老死尽。 さらには“無知”もなく、“無知”が消えることもないのです。そしてついには老いと死の苦しみもなく、老いと死の苦しみが消えることもないのです。 よく分かんない事がない それでいて よく分かんない事は無くならない それが至りて 老ひたり死んだりする事が無い それでいて 老ひたり死んだりする事は無くならない 無明は、悟りに至る十段階の最低。地獄や餓鬼よりも下。良きと悪しきの違ひも分からないくらい初歩的な段階。 乃至という言葉は独特のニュアンスがあるので他に置き換え難い。 無:苦・集・滅・道。 無:智 亦 無:得。 以 無:所得 苦しみも、苦しみの原因も、苦しみをなくすことも、苦しみをなくす道もないのです。何一つ所有するものがないので、知ることもなく、得ることもないのです。 苦しみが無い 原因が無い 消へる事が無い そんな道が無い 頭に入れない 身につけもしない そもそも身につけるものなんて無い 何でここで突然、無苦集滅道なのかよく分らない。なお苦・集・滅・道は各々を受け容れる事で四諦を成す。集は苦の原因、滅は苦を滅する事、道はその方法 得は本来悟りを得るの意。智は悟りを完成するための智慧 故 菩提薩埵 依 般若波羅蜜多 故 心:無-罣礙 無:罣礙 故 無:有恐怖 遠離:一切 転倒夢想 究竟涅槃。 三世諸仏 依 般若波羅蜜多 故 得 阿耨多羅三藐三菩提。 悟りを求める人はこの真理を拠り所とするので、心に何のこだわりも持たずにいられます。心にこだわりがないから恐れるものは何もないのです。一切の相対的な囚われの妄想から遠く離れて、永遠の平和な境地に安住していられるのです。過去・現在・未来のすべての仏たちも、この智慧の完成によって、この上ない真実の悟りを得たのです。 そんな様子なので 悟りを求める人が般若波羅蜜多に依れば 怪しきものが無いから 心にこだわりは無くなつて 怖がつて恐れるなんてことがない 想像で創り上げた思い込みの世界 そのすべてから遠く離れて 涅槃での在り様を極める 現在過去未来の色んな仏さんも 般若波羅蜜多に依ればこそ この上ない真実の悟りを得てるんだな 何度も出てくる「故」を何処に掛けるかで色んな訳となりさう 阿耨多羅三藐三菩提は何の意か勉強してゐないので丸写し 故 知、般若波羅蜜多 是 大神 呪 是 大明 呪 是 無上 呪 是 無等等 呪 能除一切苦 真実不虚。 それゆえに人は知るべきです。大いなる真言、明らかな真言、この上ない真言、比べるものがない真言は、一切の苦しみを取り除いてくれる、虚しくない真実なのだと。 だから知ってほしい 般若波羅蜜多を。 大ひなる神の言葉 大ひなる明かりの言葉 この上ない言葉 比類なき言葉 一切の苦を取り除くことができる 虚ろでない真実 (一般的な「真実であって虚に在らず」といふ読み下しに従ひて訳したが、「空」を説くに当たりて、「真実は(空なりて)虚ならず」即ち、「真の実相である「空」は「虚」ではないのだよ」といふ解釈とも取れるやうに訳した 故 説、般若波羅蜜多 呪。 即説 呪曰 羯諦、羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶。 智慧の完成においてその真言は次のように説かれました。 渡ろう、渡ろう、彼岸に渡ろう、すべてを越えて彼岸に渡ろう、そこにある無上の目覚めに幸あれ! だから唱えよう 般若波羅蜜多の言葉 さう、この言葉を唱えやう ガーテー・ガーテー・パーラーガーテー・パラサンガーテー、ボーデーソーワカ 乗り越へる、乗り越へる、完全に乗り越へる、すべてなるものを完全に乗り越へる、ああ目覚めの幸福感! 「羯諦」以下はサンスクリットの音写(当て字)。般若波羅蜜多も同様。羯諦は英語で言ふとgoneださうだ。「行く者よ」といふ訳もよく見る。「度一切苦厄」で「度」を「乗り越へる」としたので合わせてある。 空海は最初の羯諦を声聞の悟り、二つ目を縁覚の悟りなどとしてゐる。何れにしてもここは呪文であればこそ音写になってゐる処で、密教的である。訳してみたものの、「感じが出ない」と相成りたものとお察しする。 で、実際訳してみたが如何であらうか。かなりヤバい。逝きてしまふてゐる。 般若心経 以上で智慧の完成した心の教えを終わります。 目覚めを生き生きと伝へる。 コメント 名前 コメント
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この第1部では現代若者の様相を探る。そこには現代の特徴が見られるだろう。「フリーター」、「ニート」、「おたく」といったキーワードから出発するが、現象の単なる記述にとどまらず、現代若者が直面している共通の問題を取り出すことを試みる。やはり若者にとっては、職業生活と愛情生活とが大きな位置を占めており、「フリーター」、「ニート」は職業生活に、「おたく」は愛情生活において、何らかの問題を投げかけている[*2]。これらは新しい現象ではあるが、注意深く検討すると、いつの時代にも共通するような問題に通じている。 職業生活では失業、愛情生活では愛されないこと、これら二つのことは、現代に限らず、広く見られる仕方のなさそうな問題である。しかし現代では、こうした問題が正面から論じられることは少ないように思われる。「フリーター」、「ニート」、「おたく」が語られる際も、彼らの新奇な特徴が強調され、こうした問題にはなかなかたどり着かない。現代では職業生活や愛情生活において、科学技術の発展や制度の自由化により、外的な制約が少なくなってきているために、あらゆることが本人の内面に帰着させられがちなのである。 こうして、現代若者は、個人に強い負荷がかけられている。多くのことが本人次第だとされるのである。しかし実際には本人だけではどうしようのないことも多い。現代若者は、何でもできるはずの自分と、そうはできない自分とに引き裂かれているのである。 [*2] 「おたく」と愛情生活との関わりについては意外に思われるかもしれない。このことは本論の第2章の第1節で詳しく述べる。 また、「フリーター」・「ニート」と「おたく」とが、重なることがあるにしても、直接つながるわけではない。「ニート」でかつ「おたく」ではない人もいるし、「フリーター」でも「ニート」でもなく(つまり正規雇用で働いており)かつ「おたく」である人もいる。とはいえ、恋愛をあきらめている若者を指す「恋愛ニート」という言葉があるように、職業生活と愛情生活とに共通する構造があるのかもしれない。
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武田氏が若乃花勝や貴乃花光司を極めて高く評価していることは、著書「ガチンコ」や週刊現代誌上での連載などから明らか(証言者としての藤田憲子(紀子)や藤島部屋の家憲参照)だが、貴乃花および花田景子は週刊現代等に対し提訴をしている。後に問題の記事は武田氏が執筆した記事と判明した。法廷で武田氏はこれらの記事の情報源も貴乃花の母である藤田だと証言した。 なお、この貴乃花の提訴は民事第一次~四次・刑事と異なり協会と無関係である。対象の記事も連載が開始された07年より前に書かれているものである。 週刊現代八百長報道スレ23 武田さんの脳内取材 422 名前:待った名無しさん[] 投稿日:2010/09/29(水) 15 10 38 0 http //www.asahi.com/national/update/0929/TKY201009290235.html (魚拓) http //mainichi.jp/enta/sports/news/20100929k0000e040056000c.html (魚拓) 「講談社社長に重大過失」貴乃花親方2審も勝訴 大相撲の貴乃花親方夫妻が、「週刊現代」などの記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の講談社などに損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決が29日、東京高裁であった。 梅津和宏裁判長は「記事の重要部分は真実と認められない」として、1審と同様、同社と野間佐和子社長らに計847万円の賠償と謝罪広告の掲載を命じた。野間社長については「同社は名誉棄損を防止する体制を取っておらず、経営者として重大な過失があった」と指摘し、賠償責任を負う範囲を、1審の528万円から、847万円全額に広げた。 問題となったのは、2004年5月~05年7月にかけ、週刊現代と月刊誌「現代」に計13回掲載された記事。貴乃花親方夫妻が、父の二子山親方に無断で二子山部屋の土地建物の権利証を持ち出し、財産を奪おうとしたなどと報じた。 (2010年9月29日14時18分 読売新聞) http //www.yomiuri.co.jp/national/news/20100929-OYT1T00575.htm?from=area4 424 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2010/09/29(水) 21 22 27 0 社長個人に賠償責任負わせるって意味あるの? どうせ会社の金で払うんでしょ? 会社が潰れそうで支払能力がないとかいうならともかく 週刊現代八百長報道スレ22 武田さんオワタ\(^o^)/ 397 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/04/21(火) 19 26 16 0 貴乃花親方結審、判決は7月13日に[2009年4月21日8時4分 紙面から] http //www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20090421-485448.html (魚拓) 906 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/07/13(月) 19 31 04 0 【大相撲】貴乃花親方夫妻への名誉毀損裁判で講談社と武田頼政氏ら847万円の賠償と謝罪広告命令 http //anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1247480821/ 週刊現代八百長報道スレ21 武田さん別の次元へ!! 19 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 12 36 06 O ニッカンとデイリーに元ネタがまた藤田と書かれてる>貴裁判 貴親方が名誉棄損訴訟で出廷「事実無根」 http //www.nikkansports.com/sports/sumo/news/p-sp-tp3-20090217-461707.html (魚拓) ネタ元はまた藤田紀子氏 http //www.daily.co.jp/general/2009/02/17/0001707347.shtml (魚拓) 20 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 13 55 56 0 支度部屋には取材には行かないが 藤田憲子さんが言ったこと(or言ったと思いこんでること)は 全部真実だとして記事を書く それが武田さん 21 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17 28 16 0 藤田さんは性格的に、少し思い込みが強くなりやすい面があるのは否めないしな。 基本的によく気がついて、一を聞いて十を知るような回転の速い人だと思う。 ただ、何でも自分の中だけで考えようとするから、察しに間違いがあっても誰も修正できない。 25 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 18 58 52 0 【相撲】貴乃花親方、損賠訴訟で講談社側弁護団にブチ切れ「なぜ笑って聞くのですか」「なぜそんな聞き方なのか、大きな声を出すのか」 http //anchorage.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1234845459/ なお、景子夫人、兄の花田勝氏、おじの花田勝治氏(元横綱若乃花)、 母の藤田紀子(憲子から改名)氏、松ケ根親方(元大関若嶋津)らが証人申請されていたが、 却下された。 あいかわらずだな 週刊現代八百長報道スレ20 俺に250万円(・∀・)クレ!! 878 名前:待った名無しさん[] 投稿日:2009/02/04(水) 18 23 24 0 貴乃花親方勝訴、名誉棄損で新潮社社長らに賠償命令 http //www.asahi.com/national/update/0204/TKY200902040218.html (魚拓) 879 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/04(水) 18 58 04 0 878 松本裁判長は、「出版社の社長には、名誉棄損がないよう慎重に取材・執筆させ、 違法性がないかチェックする体制を社内に築く注意義務がある」と指摘。「編集権の独立を 尊重している」とする同社側の主張を退け、社長には不十分な対応で記事を掲載させた 重大な過失があったと認め、旧商法の定めに基づき、連帯して賠償金を支払うよう命じた。 やはりトップの責任まで公にしないと週刊誌は懲りないからな、GJ 898 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/05(木) 06 40 10 0 親方は現在、「週刊現代」(講談社)に対しても同様の訴訟を起こしており、 16日の最終弁論で出廷する。 http //hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20090205-OHT1T00054.htm (魚拓) 900 名前:待った名無しさん[] 投稿日:2009/02/05(木) 11 51 21 0 898 電波が現代に起こしてる訴訟って、どんなんだろ?知らんかった 902 名前:待った名無しさん[] 投稿日:2009/02/05(木) 19 15 29 0 検索してみたよ 【芸能】貴乃花親方夫妻が週刊誌4誌を提訴、異例の8人弁護団結成…遺産相続報道で http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1135681580/ 「週 刊 現 代」「月刊現代」「フライデー」を訴えているらしいw 貴乃花親方が出版2社提訴/報道で名誉棄損、と主張 http //www.shikoku-np.co.jp/national/social/article.aspx?id=20051227000407 (魚拓) 972 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/16(月) 21 06 42 0 久々の動く武田さん。元気そうだね。空元気かもしれないけどw http //www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00149507.html (魚拓) 武田頼政氏は「貴乃花親方が自分のしゃべったこと、語ったことに関しても、 全部なかったことにしようという。相変わらずだなと」 武田さんが自分の書いたことに関しても全部なかったことにしようという。相変わらずだなとw 973 名前:待った名無しさん[sage] 投稿日:2009/02/16(月) 21 20 00 0 糞ワロタwww武田さんご本人が書いたのかよwww ガチンコ―さらば若乃花 (単行本) ISBN-13 978-4062103084 発売日:2000/09
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現代画報社は、月刊経営情報誌「ザ・ヒューマン」の発行を行っている。 現代画報社は、「ザ・ヒューマン」で経営者の“熱き思い”を全国に届ける。 現代画報社は、「ザ・ヒューマン」の取材対象を中小企業とする事にこだわりを持つ。 月刊経営情報誌「ザ・ヒューマン」の発行元は、現代画報社である。 「ザ・ヒューマン」の特別取材企画で経営者に迫るのは、現代画報社である。 現代画報社のザ・ヒューマンとは 現代画報社が発行する月刊経営情報誌「ザ・ヒューマン」は、“経営者の熱き思いを全国に届ける経営情報誌”とされ、独自の取材活動を通じて各種業界の経営者へ取材を行う。また、ザ・ヒューマンでは、経営者とゲストインタビュアーとの対談形式の取材が用いられている。ゲストインタビュアーとして取材に登場する人物は、各界を代表する著名人である。 ザ・ヒューマンの主な取材先 ザ・ヒューマンの主な取材先は下記の通りで 中小企業 医療関係者 各種業界の専門家 社寺仏閣関係者 店舗オーナー...etc その他ザ・ヒューマンでは様々な業界へ取材に赴いている。 ザ・ヒューマンの特別取材企画 ザ・ヒューマンには5つの特別取材企画が設けられており、取材を受けた経営者はそれぞれの特別取材企画に分けて誌面に登場する形となる。 「地域を育む人と企業」 「Dr.訪問 地域医療に貢献する」 「時代と人をつなぐスペシャリスト」 「心のふるさと 社寺めぐり」 「美食探訪 一度行きたいお薦めの逸店」 現代画報社のザ・ヒューマン 現代画報社ザヒューマン 株式会社現代画報社 現代画報社 取材 現代画報社 電話営業 現代画報社 国際通信社 現代画報社 報道通信社 現代画報社 雑誌 現代画報社 経営者 現代画報社心のふるさと 現代画報社wiki
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252p 釈尊一代に説かれた顕教・密教のニ道にも、 一切の大乗経・小乗経の中にも、釈迦仏と諸仏が並んで座り、 広長舌を梵天にまで届かせた という文は法華経以外にはありません。 阿弥陀経に仏の広長舌が三千大千世界を覆ったとありますが、これは有名無実です。 般若経には広長舌が三千大千世界を覆い、その舌から光を放って般若を説いたというのも、 まったく真実の証明ではありません。 これらの諸経はみな権教を兼ね帯びているために仏の久遠の本地を覆いかくしているからです。 法華経神力品では、 このように十種類の神力をあらわして地涌の菩薩に妙法の五字を付嘱した状況について つぎのように説かれています。 「その時に仏は上行らの菩薩の大衆に告げられた。 『諸仏の神力はこのようにはかりしれないほど不可思議である。 もし、私がこの神力をもって無量無辺百千万億阿僧祗劫のあいだ、妙法五字を付嘱するために この法華経の功徳を説こうとしても、なお説きつくすことはできない。 いまその肝要をいうならば、如来の一切の所有している法、如来の一切の自在の神力、 如来の一切の甚深の事が、みなこの経に宣べ示し説き顕されている』」と。 この経文について天台大師は「法華文句」に 「『その時に仏は上行らに告ぐ』より下は、第三の結要付嘱である」 等と述べています。 また伝教大師はこれを解釈して「法華秀句」に、 「また神力品には『肝要を取り上げていうならば、如来の一切の所有の法を(中略) 宣べ示し説き顕されている』と説かれている。 これによって明らかに知ることができる。 仏果の上の一切の所有の法、一切の自在の神カ、 一切の秘要の蔵、一切の甚深の事が みな法華経において宣べ示し説き顕されたのであるということを」等と述べています。 この十種の神力は、 妙法蓮華経の五字を上行・安立行・浄行・無辺行らの四大菩薩に授け与えるために顕されました。 前の五神力は釈尊の在世のため、 後の五神力は釈尊の滅後のためです。 しかしながら、一歩立ち入って論ずるならば、全て滅後のためなのです。 ですから、次の下の文に 「仏の入滅した後に、よくこの経をたもつであろうから、 諸仏はみな歓喜して無量の神力をあらわされたのである」(神力品)等とあります。 神力品の次の嘱累品に、 「その時に釈迦牟尼仏は法座より起って大神力を顕された。 右の手をで無数の菩薩の頭の頂をなで、(中略)今 汝たちに付属する」と説かれています。 すなわち地湧の菩薩を先頭にして迹化・他方の菩薩、 ないし梵天・帝釈・四天王等にこの経を付嘱されたのです。 この付属が終わると 「十方世界から集まり来ていた諸々の分身の諸仏を各々の本土へ還らせ、(中略) 多宝仏の塔も閉じてもとのようにしなさい」(嘱累品)等と説かれています。 つぎの薬王品以下の各品や涅槃経等は、 地湧の菩薩が去り終わった後、迹化や他方の菩薩たちのために重ねてこの経を付属されています。 いわゆる 君拾遺嘱(くんじゅういぞく)」というのがこれです。 10 地涌出現の時節を明かす 疑っていうには、 正法・像法二千年のあいだに地涌千界の大菩薩が閻浮提に出現してこの経を 流通されるのでしょうか。 答えていうには、そうではありません。 驚いていうには、 253p 法華経全体、および法華経本門は仏滅後を本として、まず地涌千界の大菩薩に授与されました。 どうして仏滅後の正法・像法時代に出現してこの経を弘通しないのでしょうか。 答えていうには、それについては宣べません。 重ねて問うていうには、どうして出現せず、弘通しないのでしょうか。 答えていうには、これを宜べることはしません。 また重ねて問うていうには、どうしてでしょうか。 答えていうのには、 これを宣べますと一切世間の人々は、威音王仏の末法の四衆のように、 増上慢をおこして地獄へ堕ちるでしょうし、 また我が弟子の中にもほぼこれを説いたならば、みな誹誘するでしょう。 だからただ黙止するのみです。 求めていうのには、 もし知っていて説かないなら、あなたは慳貪の罪におちるでしょう。 答えていうのには、 進退窮まってしまいました。 それでは試みにほぼこれを説いてみましょう。 法華経法師品には 「まして滅後の後はなおさら怨嫉が多い」と説かれ、 寿量品には「いま留めてここにおく」と説かれ、 分別功徳品には「悪世末法の時」とあり、 薬王品には 「後の五百歳すなわち末法の初めに全世界において広宣流布するであろう」 と説かれています。 さらに涅槃経に 「たとえば七人の子供があるとする。父母は子供に対して平等ではないということはないが、 しかし病気の子には心をひとえに重くかけるようなものである」等と説かれています。 以上の経文を明かな鏡として仏の真意を推しはかってみますと、 釈迦仏の出世は霊鷲山で八年にわたって法を聞いた人々のためではなく、 釈尊滅後の正法・像法・末法の人のためです。 また正法・像法二千年の間の人のためではなく、 末法の始めの私のような者のためです。 涅槃経に説かれる 「しかし病気の者には」というのは、釈尊滅後において法華経を謗る者を指すのです。 寿量品にいう「いま留めてここにおく」というのは、 「このすばらしい色香の薬をよくないと思う」(寿量品)という考えを指しているのです。 地涌千界の大菩薩が正法・像法時代に出現しないのはつぎのような理由によるのです。 正法一千年あいだは小乗教・権大乗教が流布する時で、 人々は寿量文底下種の三大秘法を受持する機根ではなく、弘通する時でもなく、 四依の菩薩たちは小乗教・権大乗教をもって縁となし、 釈尊在世に仏種を植えられた衆生を得脱させたのです。 その時代に法華経を説いてもそしるばかりで、 過去に植えられた仏種が成長し調熟しつつあるのを破ってしまうでしょうから、 これを説かなかったのです。 たとえば釈尊在世において前四味の爾前経で化導された衆生のようなものです。 像法時代の中ごろから末にかけて、 観音菩薩は商岳大師として、 薬王菩薩は天台大師と示現して世に出現し、法華経迹門を面にし、 本門を裏として、百界千如、一念三千の法門の義を説き尽くしました。 しかし、 ただ理性として具えていることを論じただけで、 事行の南無妙法蓮華経の五字、 ならぴに本門の本尊については 未だひろく外に向かって行ずることはありませんでした。 それは結局、円教を受け入れる機根は一分ありましたが、 円教の弘通される時ではなかったからです。 いま末法の初めに入って、小乗教をもって大乗教を打ち、権教をもって実教を破り、 それは、東と西ともに方向を失い、天と地が逆になったような状態です。 正法・像法時代に正法を弘めた迹化の四依の菩薩はすでに隠れて世に存在しません。 諸天善神はそのような国を捨て去り、守護しません。 この時、地湧の菩薩が初めて世に出現し、 ただ妙法蓮華経の五字の良薬をもって幼稚の衆生に飲ませるのです。 「法華文句記」にいう 「正法をそしることによって悪におちたならば、かならずその因縁によって利益を得る」 というのがこの事です。 我が弟子たちはこのことをよく考えなさい。 地涌千界の菩薩は教主釈尊が初めて悟りを求める心をおこした時以来の弟子です。 しかし、釈尊が成道した寂滅道場にも来なかったし、沙羅双樹林において入滅された時にも おとずれなかった。 これは不孝の罪というべきでしょう。 法華経迹門の十四品にも来ないで、 本門の薬王品第二十三以下の六品には座を立ってしまいました。 ただ本門の涌出品から嘱累品までの八品のあいだだけ来還したのです。 254p このょうな高貴の大菩薩が釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏にたいして 末法に弘通することを約束して妙法五字を受持したのです。 末法の初めに出現されないことがあるでしょうか。 まさに、 この上行らの四菩薩は、折伏を現ずる時には賢王となって愚王を責め誠め、 摂受を行ずる時は聖僧となって正法を弘持するのです。 問うていうには、仏が未来を予言して記した文はどうでしょうか。 答えていうには、 法華経薬王品に 「後の五百歳に、全世界において広宣流布するであろう」と説かれています。 天台大師は「法華文句」に 「後の五百歳から、末法の未来永劫に妙法が流布するであろう」と記し、 これを解釈して妙薬は「法華文句記」に 「未法の初めは下種益が必ずある」と記しています。 さらに伝教大師は「守護国界章」に 「正法・像法時代はほとんど過ぎ終わって、末法が非常に近づいている」等と述べています。 「末法が非常に近づいている」との釈は伝教自身の時代は三大秘法の南無妙法蓮華経が 正しく流布される時ではない、という意味です。 伝教大師が日本に出現して、末法の始めを記していうには、 「時代をいうならば像法時代の終わり、末法の初めであり、 その地をたずねれば中国・唐国の東で靺羯(まかつ)国の西にあたり、 その時代の人をたずねれば、五濁の盛んな衆生であり、闘諍堅固の時代である。 法華経法師品に、 『如来の現在さえなお怨みやねたみが多い。まして滅度の後の末法にはなおさらである』 と説かれているが、この言葉はまことに深い理由がある」と。 この伝教の釈に「闘諍の時なり」とありますが、 いまの自界叛逆と西海侵逼の二つの難を指すのです。 この時に地涌千界の大菩薩が出現して、 法華経本門の釈尊を脇士とする全世界第一の本尊が、この国に建立されるのです。 インド・中国にいまだこの本尊は建立されませんでした。 日本国の聖徳太子は、四天王寺を建立しましたが、 いまだこの本尊を建立する時が来ていなかったので、阿弥陀仏という多宝仏を本尊としました。 聖武天皇は東大寺を建立しましたが、その本尊は華厳経の教主の盧舎那仏で、 いまだ法華経の実義を顕わしていません。 伝教大師は ほぽ法華経の実義を顕し示しました。 しかし、時がいまだ来ていなかったので、東方の薬師如来を建立して本尊とし、 本門を四菩薩は顕していません。 それは、釈尊が地涌千界の菩薩のために、本門の本尊を譲り与えられたからです。 この地涌の菩薩は仏の命令をうけて近く大地の下にいます。 正法・像法時代にはいまだ出現していません。 末法にもまた出現されなかったならば大妄語の菩薩です。 釈迦・多宝・十方分心の三仏の未来記もまた方沫と同じになってしまいます。 以上のことから考えてみますと、 正法・像法時代になかったような大地震・大彗星等がいま出てきています。 これらは金翅鳥・修羅・竜神などのおこす動変ではありません。 ひとえに四大菩薩を出現させるための兆しでしょう。 天台大師は「法華文句」に 「雨の激しさを見て、その雨を降らせている竜が大きいことを知り、 蓮の花のさ盛んなのを見て、その池の深いことを知る」等といい、 妙楽は「法華文句記」に 「智人は物事の起こりを知り、蛇は自らのことをよく知っている」等といっています。 天が晴れたならば地はおのずから明らかになります。 法華経を識(し)る者は 世間の法をもおのずから得る事でしょう。 11 総結 一念三千を識(し)らない末法の衆生に対して、 仏(久遠元初の御本仏)は大慈悲を起こし、妙法五字のうちに一念三千の珠をつつんで、 末代幼稚の者の首にかけさせてくださるのです。 255p 本化地涌の四大菩薩が、 この幼稚の衆生を守護されることは、大公・周公が文王に仕えてよく助け、 商山の四晧が恵帝に仕えたのと異ならないのです。 文永十年四月二十五日 日蓮これを記す
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ここでは現代4コマの批評家である視力について説明する。 概要 その思考自体を「4コマ化」して発し手側に回ってしまう事も可能なのです。作者が読者であり、読者が作者でもある。批評と表現の相互作用。それ自体が現代4コマと呼べるのではないでしょうか?ーー視力(shi_ryoku)Twitterアカウントより 主にTwitterにて、現代4コマの批評を行っているアカウントのひとつ。たまに現代4コマの創作も行う。 批評と言っても、彼のそれは読書感想文の延長線上に位置していて極めて個人的な感覚の発露が目的の趣味行為でしかなく、単純に現代4コマの読者の一人である存在に過ぎない。しかし上記の発言のように現代4コマという概念そのものが批評と表現の循環的な運動をはらんでおり、感想の延長で創作地点にも重なっている状態である。(これは視力氏だけが該当するわけではない。現代4コマに関わる全ての人物は制作者と批評家の両面を持つ) 元々は大喜利界隈、ネタツイ界隈、お笑いファン界隈、お笑い評論界隈などを漂流していた(現在進行形で)。SNS漫画などへのRTや感想を呟いてゆく行為の一連の流れの中で現代4コマ界隈にも辿り着いている。 なので、言語的なアプローチや空間理解、アートやデザインの歴史的文脈などの視座よりも、俗物的な観点や、雰囲気自体のパロディ、サブカルチャーでのサンプリング、文化領域横断などの曖昧感覚の追求を好んでいる傾向がある。本人いわく「批評ものまね」。 現代4コマというジャンルそのものがある種の「枠」性を主体として、その変容や触媒そのものを現象学、社会学的にも描いているとも言えるので、その対峙的な方向から「枠の解体(によって結果として脱構築を繰り返してゆく)」という手法で現代4コマへの新しい可能性を追求している、のかもしれない。 主な現代4コマ評論 現代4コマ批評 4という数字への感覚に関する考察 コマ4表現 パフェ=4コマ説 関連項目 コマ4表現 コマ人間 パフェズム セグウェイ 関連リンク 視力Twitter ひとのきもち
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505p 顕仏未来記 沙門 日蓮 之を勘う 1 釈尊の未来記を挙げる 法華経の第七の巻、薬王品には、 「我が滅度の後、後の五百歳の中に、この閻浮提に広宣流布して断絶することがないであろう」 等と述べられている。 日蓮が一たびは歎(なげ)いていうには、 今は、仏滅後、すでに二千二百二十余年も経っている。 一体いかなる罪業があって、仏の在世に生まれ合わすことが出来ず、 また正法の時代に生まれて、 人の四依といわれる迦葉(かしょう)・阿難(あなん)・竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)等の 菩薩に会えなかったのだろうか。 さらにまた、像法時代の天台・伝教等にも会えなかったのであろうかと。 また、一たびは歓喜していう。 一体いかなる幸があって後の五百歳(末法)に生まれて、 この薬王品の真実の文を拝見することが出来たのであろうかと。 釈尊在世に生まれたとしてもこの真文にあうことはなかった。 なぜならば乳味(にゅうみ)「華厳」・酪味(らくみ)「阿含」・生蘇味(しょうそみ)「方等」 熟蘇味(じゅくそみ)「般若」の前四味の説法を受けた人は、未だ法華経を聞いていないからである。 また正法・像法時代に生まれたとしても、少しも意義がない。 なぜならば法華経は、既に説かれていたが、 南三北七ならびに華厳・真言等の学者は法華経を信じなかったからである。 天台大師は法華文句巻一に 「後の五百歳、すなわち末法の始めから、遠く末法万年・尽未来際にいたるまで 妙法が流布し、一切衆生が沾うであろう」等といっているが、 この文は広宣流布の時を指すのであろうか。 また伝教大師は守護国界章上に 「正像二千年は、ほとんど過ぎおわって、末法が、はなはだ近づいている」 といっているが、これは末法の始めに生まれることを願い慕(した)っている言葉である。 故に、時代の比較によって、身に備えた果報の優劣を論ずるならば、 506p 日蓮は正法時代の竜樹・天親に超えているばかりでなく、 像法時代の天台・伝教にも勝れているのである。 2 末法の留難を明かす 問うていうには、 後の五百歳の記文は別にあなた一人を対象として説いたものではないのに、 どうして特にこのことを喜びとしているのか。 答えていうには、 法華経第四の巻、法師品には 「仏の在世中でさえ、なお怨嫉が多いのであるから、ましてや仏の入滅の後には、 さらに大きい怨嫉が競い起こるであろう」 といっている。 天台大師も法華文句に、この法師品の文を 「仏の在世においても、なお怨嫉が多い。まして仏入滅後の末法のにおいてはなおさらである。 その理由は、なかなか教化し難いところにある」 と記している。 妙楽大師は、さらに法華文句記に 「理在難化(りざいなんげ)とは、 この理由を明かす真意は、末法の衆生が教化し難いことを知らしめることにある」 と釈している。 智度法師は天台法華疏義纘(てんだいほっけしょぎさん)に 「俗世間のことわざに、”良薬口に苦し”というように、この法華経は、 人・天・声聞・縁覚・菩薩の五乗が人生の目的であるという偏見に執着することを打ち破って、 その目的は成仏することであるとする故に、 人においては爾前の凡位の者をしりぞけ、聖位の者を呵責し、 法においては、諸(もろもろ)の大乗を排し、小乗を破折する。 乃至(ないし)そのために、このように破折をうけた五乗・凡聖の徒輩が、正法流布を妨げる」 と述べている。 伝教大師は法華秀句巻下に 「妙法が流布するのは、その時を語れば、像法の終わり末法の始めである。 その地を尋ねれば、唐の東・摩羯国(まかつこく)の西である。 教えをうける人を尋ねれば五濁悪世の末法に生をうけた本未有善(ほんみうぜん)の衆生であり、 闘諍堅固(とうじょうけんご)の時の人である。 法華経法師品に 『如来の現在にすら猶怨嫉が多い、況(いわ)んや滅度の後をや』と予言しているが、 これはまことに深いわけのある言葉である」 等といっている。 この伝教大師の秀句の文は、 一見これを著(あら)わした大師の時代に相当するように見えるが、 本意は末法の初めである今を指すのである。 「正法像法は、ほとんど過ぎおわって、末法がはなはだ近づいている」 との釈文は、実に深い心をもった言葉ではないか。 また薬王品には 「悪魔・魔民・諸天竜・夜叉(やしゃ)・鳩般茶(くはんだ)等が、様々な災いをなすであろう」 と説かれている。 この中の「等」とは、この陀羅尼品(だらにほん)に、 「あるいは夜叉・あるいは羅刹(らせつ)・あるいは餓鬼・あるいは富単那(ふたんな) あるいは吉遮(きつしゃ)・あるいは毘陀羅(びだら)・あるいは犍駄(けんだ) あるいは鳥摩勒伽(うまろぎゃ)・・あるいは阿跋摩羅(あばつまら) あるいは夜叉吉遮(やしゃきつしゃ)・あるいは人吉遮(にんきつしゃ)」等をいうのである。 この文は、先の世に爾前権教である四味三教、ないし外道・人天等の法を持得(じとく)して、 その結果、今生には悪魔や諸天竜、諸人等の身を受けた者が、 円教・実教である法華経の行者を見聞して、 その行者に種々の難を加えるであろうということを説いているのである。 3 末法の弘教の方軌を明かす 疑っていうには、 正法像法の二時を末法と比べてみると、時も衆生の機根も、共に正像は末法よりも特に勝れている。 それなのに薬王品の後五百歳の文は、どうしてその勝れた正像の時と機とを捨てて、 ひとえに末法を指しているのであろうか。 答えていうには、 仏の御本意は凡夫には測(はか)りがたいので、まだ日蓮もこのことは証得していない。 だが試みに一義を考えてみると、 まず小乗教をもって正像末の三時を勘案してみると、 正法一千年間には教行証の三つが具(そな)わっている。 像法一千年には教と行だけがあって証果はない。 末法には教だけあって行と証がないのである。 そこで法華経をもってこの教行証について考えてみると、 正法一千年の間に教行証の三つを具えているのは、釈尊在世において法華経に結縁した者であろうか。 その後、これらの人が正法時に生まれて小乗教の教と行を縁として、小乗教の証果を得るのである。 像法時においては釈尊在世の法華経に結縁がきわめて薄いために、 小乗教で証果を得ることはなくて、権大乗教を縁として、十方の浄土に生ずるのである。 ところが末法においては、大乗教・小乗教の益は共にないのである。 まず小乗教は教だけは残っているが、行と証はなくなっている。 507p 次に、大乗教においては、教と行だけは残っているが、 冥益(みょうやく)、顕益(けんやく)の証はまったくなくなっている。 そのうえ正法・像法時代に立てたところの権大乗教・小乗教の二つの宗派は 漸次(ぜんじ)に末法に入ってからは、その執着心がいよいよ強くなって、 小乗教で大乗教を批判したり、権教の教義で実教の教義を破ったりして、 国中にこうした謗法の者が充満しているのである。 そのために仏教を誤って三悪道に堕ちる者は大地微塵よりも多く、 正法を修行して成仏する者は、爪の上の土よりも少ない。 こういう時期に当面して、諸天善神はその国を捨てて離れ、 ただ邪天・邪鬼等だけがいて、王臣・比丘・比丘尼の身心の中に入り住んで、 これらの人々に法華経の行者に対し悪口を言ったり、 謗(そし)り辱(はずかし)めたりさせる時になっている。 しかしながら、如来滅後五五百歳において、四味・三教等への邪(よこしま)な執着を捨てて 実大乗教である法華経に帰依するならば、 諸天善神ならびに地涌千界等の菩薩が必ず法華経の行者を守護するであろう。 法華経の行者は、この諸天善神や地涌の菩薩などの守護の力を得て、 本門の本尊・南無妙法蓮華経を一閻浮提に広宣流布させていくであろう。 この姿は、たとえていえば、 威音王仏の像法の時に、不軽菩薩が「我深敬(がじんきょう)」等の 二十四文字の法華経をもって彼の国土に広宣流布して、一国から杖や棒で迫害されるという 大難を呼び起こしたようなものである。 不軽菩薩の二十四文字と日蓮のこの五文字とは、 その語は異なるけれども、本意は同じであり、 その時の像法の末と今の末法の初めとは、弘教の方軌がまったく同じである。 また不軽菩薩は、初随喜(しょずいき)の人であり、日蓮は名字即の凡夫であり、 同じく本因妙の行者(法華経の行者)なのである。 4 末法の御本仏を明かす 疑っていうには、 あなたを末法の初めの法華経の行者であると決定することは、何をもって知ることが出来るのであるか。 答えていうには、法華経に次のように説かれている。 法師品には 「釈尊在世でさえも怨嫉が多い。まして滅後末法に法華経を持ち弘める者には、 それにもまさる怨嫉が起こるであろう」と。 勧持品には 「滅後末法において法華経を弘める者には、多くの無智の人が、悪口を言い、 罵(ののし)るなどし、さらに刀で切りつけ、杖で打つ者がいるであろう」と。 同じく勧持品には 「一度ならず二度までも法華経の行者は所を追われるであろう」と。 また、安楽行品には 「世間のあらゆる人は仏に怨嫉し、正法を信じようとしない」と。 また不軽品には 「法華経を説けば、増上慢の衆が、杖木(じょうもく)や、瓦、石などでこの人を打ちたたき迫害する」と。 また前に述べた薬王品にも 「悪魔、魔民、諸天竜、夜叉、鳩般茶等の魔や悪鬼がつけこんで、さまざまな災いをなすであろう」 等と説かれている。 これら法華経の明鏡について、 仏語を信じさせるために、日本国中の王と臣下及び四衆の行為に当てはめてみるに、 この経文に符号するものは日蓮よりほかに、一人も見当たらない。 時を論ずるならば、末法の初めで、まさに「その時」にあたっており、 それゆえ、 もし日蓮が出なかったならば、仏語は虚妄(こもう)になってしまうであろう。 非難していうには、あなたは大慢の法師であって、その慢心ぶりは、大天に過ぎ、 四禅比丘にも超えていると思うが、どうでろうか。 答えていうには、 あなたがこの日蓮を軽蔑する重罪は提婆達多(だいばだった)の犯した逆罪に過ぎ、 無垢(むく)論師の罪にも超えている。 我が言葉は、大慢に似ているように聞こえるかもしれないが、 それは仏の未来記をたすけ、如来の実語を顕すためである。 それゆえ日本国中において、 日蓮を除いてほかに、誰人を選び出して法華経の行者をいうことができようか。 あなたは法華経の行者である日蓮を誹謗しようとして、仏の未来記を虚妄にするものである。 それこそ、まさに大悪人ではないか。 508p 5 月氏・漢土に仏法無きを明かす 疑っていうには、 確かに釈尊の法華経の予言はあなたに当てはまっている。 ただし、日本のみならず、インドや中国にも法華経の行者がいるのではなかろうか。 答えていうには、 全世界に二つの日があるわけがない。 一国になんで二人の国主がいようか。 いるわけがないではないか。 同じく法華経の行者は全世界にただ一人のみである。 疑っていうには、 何を根拠として、あなたはこのことがわかるのか。 答えていうには、 月は西から出て東を照らし、 日は東から出て西を照らす。 仏法もまたこの大宇宙の法則どおりである。 正法ならびに像法時代には、 仏法は西のインドから、中国、朝鮮、日本へと次第に東へ伝わり、 末法においては、 南無妙法蓮華経の大仏法が、東のこの日本から、西へと流布してゆくのである。 妙楽大師は、法華文句記の巻十に 「これは仏法の中心地たるインドでは仏法を失って、これを四方に求めていることではないか」 と、述べている。 これはインドには仏法はないという証文である。 また中国においては、 宋の高宗皇帝(こうそうこうてい)の時に、 金が東京開封府(とんきんかいほうふ)を占領してから現在にいたるまで、 百五十余年の歳月を経過して、すでに仏法も王法も共に滅んでしまった。 中国における大蔵経の中には小乗経はまったくなくなっており、 大乗経もそのほとんどを失ってしまった。 その後、日本から中国へ天台僧の寂照(じゃくしょう)等が少々経文を渡した。 しかしながら、中国においては仏法を持ち、伝えていく人がいないので、 それはちょうど木石の像が法衣を着、鉢を持っているようなもので、 何の役にも立っていない。 故に遵式(じゅんしき)は天竺別集に次のように述べている。 「始め、釈尊の仏法が西から伝わってきたのは、ちょうど月が西から東へ移っていくようなものであった。 今、再び東の日本から仏法が返ってきた。これはちょうど太陽が東から昇るようなものである」 等と。 この妙楽大師や、遵式等の釈のとおりならば、インドや中国においては、 すでに仏法を失ってしまったということが明確である。 問うていうには、 インド、中国に、仏法がないことはよくわかった。 では南閻浮提以外の東西北の三洲に仏法がないということは、どうしてわかるのか。 答えていうには、 法華経の八の巻・勧発品第二十八に 「如来の滅後において、法華経を南閻浮提の内に広宣流布して、永久に断絶させないように するでありましょう」 と説かれている。 この経文にある「内」の字は、 東の弗婆提(ほつばだい)、西の瞿耶尼(くやに)、北の欝単越(うつたんのつ)の三洲を 除くという文証である。 6 御本仏の未来記を明かす 問うていうには、 釈尊の未来記があなたの身の上にあてはまることはよくわかった。 それではあなたの未来記はどうなっているのか。 答えていうには、 釈尊の未来記に従ってこれを考えてみるのに、 今はすでに後五百歳の始め、すなわち末法の始めに相当している。 末法の真の仏法は、必ず東土の日本から出現するはずである。 ゆえに、その前相として、必ずや正法・像法時代に超えた天変地夭があるだろう。 いわゆる釈迦仏の誕生の時、仏が法を説いた時、また仏の入滅の時に起こった瑞相には、 吉瑞も凶瑞も共に、前後の時代に比べるべきものがないほどの大瑞であった。 仏は聖人の本である。 経文を見ると、釈尊が誕生した時の有様は、五色の光が四方をすべて照らして、 夜も昼のように明るかったと説かれている。 また、釈尊が入滅の時には、十二の白い虹が南北にわたって現われ太陽は光を無くしてしまって、 闇夜のようになったと説かれている。 その後、正法・像法二千年の間に内道・外道の多くの聖人が出現し、 滅していったけれども、この釈尊の時のような大瑞にはとうてい及ばなかった。 しかるに、 去る正嘉年中から今年に至るまでの間に、あるいは大地震が起こり、あるいは大天変があって、 これらは、あたかも釈尊の生滅の時の瑞相のようである。 釈尊のような聖人が生まれてきていることをまさに知るべきである。 大空には、大彗星が出現した。 だがいったいどのような王臣が、この瑞相に対応するのであろうか。 また大地を傾動して、三度も振裂したほど激しいものであった。 だが、どのような聖人、賢人の出現をもって、この瑞相に当てることができるのだろうか。 これらの大瑞は、一般世間における普通の吉凶の大瑞ではない。 これはひとえに、 大仏法が興隆し、釈尊の仏法が廃れるという大瑞であることをまさに知るべきである。 509p 天台大師は、法華文句の巻九に次のように述べている。 「雨のあげしさを見て、雨を降らせている竜の大きさを知ることが出来る。 また蓮華の盛んなのを見て、その池の深さを知ることが出来る」と。 妙楽大師は、法華文句に釈して 「智人は事の起こる由来を知り、蛇は自ら蛇を知っている」と述べている。 7 妙法流布の方軌を示す 日蓮はこの道理を覚知して、すでに二十一年になる。 そのために日ごとに災いをうけ、月ごとに難をこうむってきた。 とくにこの二、三年の間の難は大きく、すでに死罪にまで及ぼうとした。 今年また今月は、万が一にも助からない生命である。 世の人々はもし私の言うことについて疑いがあるならば、詳しいことは弟子に問われるがよい。 生涯の内に無始以来の謗法の罪業を消滅出来るとは、なんと幸福なことであろうか。 また、いままでに、見聞出来なかった教主釈尊にお仕え申し上げられるとは、 なんと悦ばしいことであろうか。 私はこのような大利益を得たのであるから、願わくは私を害した国主等を先ず最初に化導しよう。 私を助ける弟子等のことを釈尊に申し上げよう。 また私を生んでくださった父母には、死なないうちにこの南無妙法蓮華経の大善をおすすめしよう。 この数々の大難によって、 今、夢のように、宝塔品の要である六難九易の文章を証得することが出来た。 宝塔品には、次のように説かれている。 「もし須弥山をつかんで、他方の無数の仏土に投げようとも、それはむずかしいとはしない。 乃至、もし仏の滅度の後、悪世末法においてよくこの法華経を説くということは、 これこそ非常にむずかしい」等と。 伝教大師は法華秀句に次のように述べている。 「浅い爾前権教につくことはやさしいが、 深い法華経を持つことはむずかしいというのは釈尊の教判である。 しかし浅い小法を捨てて、深い大法につくことこそ、丈夫の心である。 この教えにしたがって天台大師は釈尊の信順し、法華宗を助けて中国に法華経を宣揚した。 叡山の一家(伝教大師)は天台大師の法を承(う)けて法華宗を日本に弘通した」と。 安房国の日蓮は、おそらくは、釈尊、天台大師、伝教大師の三師に相承し、 法華宗を助けて、末法に南無妙法蓮華経を流通するのである。 ゆえに釈尊、天台大師、伝教大師の三師に日蓮を加えて、三国四師と名づけるのである。 南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。 文永十年太歳癸酉後(たいさいみずのととりのちの)五月十一日 桑門(そうもん)日蓮之(これ)を記(しる)す